「愛人
ラマン」「セブン・イヤーズ・イン・チベット」のジャン=ジャック・アノー監督が、ウンベルト・エーコの同名小説を実写映画化したゴシックミステリー。宗教裁判が激化する14世紀のヨーロッパ。イギリスの修道士ウィリアムと見習い修道士アドソは、重要な会議に参加するため、北イタリアの修道院にやって来る。到着早々、彼らは修道院で若い修道士が不審な死を遂げたことを知る。院長によると、死んだ修道士は文書館で挿絵師として働いていたという。事件の調査を依頼されたウィリアムたちは真相を求めて奔走するが、さらなる殺人事件が起こり……。修道士ウィリアムをショーン・コネリー、見習い修道士アドソをクリスチャン・スレイターが演じた。
薔薇の名前評論(14)
そして、掲題は、当時の映画のエンドロールの直前に流れるラテン語の詩の邦訳だった……はずだが、これがVHS化された時に、この邦訳は変更されていた。
それは、小説の「過ぎにし薔薇はただ名前のみ、虚しきその名が今に残れり」とほぼ同じだったと思う。
何故だろうか。
薔薇の名前は、ショーン・コネリーの重厚感や、若き日のクリスチャン・スレーターも印象的だったが、そのストーリーが単なる謎解きミステリーを大きく超えて、中世カトリックや、その強大化した権力、農奴に対する苛烈な支配・差別、宗教的な普遍的価値とは何かを問う大作だった。
その物語は、次々に修道院で起こる殺人事件と、異端が関係しているのか、実は修道院の何処かに隠されているとされるローマ・カトリックの禁書に関係しているのではないのか、そして、その禁書に何が記されているのか、様々な謎を孕み、映画ならではの迷路のようなセッティング、スペクタクルな場面を経て進行していく。
中世、ローマ・カトリックは、ローマ帝国崩壊後のローマに拠点を置き、荒廃したローマに活気を取り戻しただけに止まらず、当時の欧州各国の政治や王位継承に大きな影響を与える強大な権力を手にしていた。
ヒエラルキーの頂点に君臨していたのだ。
そして、その支配は苛烈でもあった。
異端を徹底的に排除し、死罪なども当たり前だった。
こうしたことを窺わせる場面も映画には散りばめられている。
農奴の置かれた劣悪な環境も差別が如何に酷かったのかを伝えている。
そして、禁書の示すものは…。
以下ネタバレを含みます。
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禁書とされたのは、アリストテレスの「笑い(喜劇)の章」だ。
何故これが禁書なのか。
その意味するのは、ローマ・カトリックの宗教支配が恐怖によるものだったということだ。
信仰に従わない者には苛烈な罰が与えられ、異端は往々にして死罪となり、普通の人間にも地獄に落ちるとか、神罰がくだるといった暗示的な恐怖で信仰を強制し、皆で笑うとか、楽しむなどというのは信仰に不必要なことだったのだ。
これは、ダンテが中世ヨーロッパにあって、この地獄や煉獄を含んだローマ・カトリックの世界観を「神曲」で示していることからも窺える。
ただ、当のダンテも、庶民にも読めるようにとイタリアの方言であるトスカーナ語で書いたため、ラテン語以外で書物を書いた罪で協会から追放されてしまう。
それほど、ローマ・カトリックは、戒律や規律で雁字搦めだったのだ。
これは、現代にも通じる話ではないか。
25年近く前にテロ事件を起こした新興宗教のマインド・コントロールもそうだし、少し視点を変えたら、自由主義や民主主義に依らず、特定の一党独裁やそれに近い政治支配、或いは、特定の宗教支配を行う共同体や国家の支配も類似していないか。
戦前の官憲が見廻る日本も大差なかったはずだ。
ハラスメントや劣悪な労働環境を改善せず、従業員を恐怖で縛り付ける企業だって大差ない。
そして、この作品は、禁書というヒントを通して考える機会を僕達に与えているのだ。
アリストテレスは、実際、喜劇について何か書き残したのではないかという説もあるようだし、当時の権力や支配者を笑い飛ばすなんてことが御法度の世界を、これと対比させることで、感情を自由に表現できるということの重要性も考えさせられる。
そして、最初に提示した謎。
何故、ラテン語の詩の邦訳は変更されたのか。
その詩の意味することは一体何なのか。
僕は20年近く、この謎が常に頭の片隅にあった。
しかし、ついに2000年を過ぎたころ、ウンベルト・エーコが、アメリカのアンカーのこの詩の意味は何なのかという質問に対して答えた記事をネットで発見する。
このラテン語の詩の原文はこれだ。
「Stat rosa pristina nomine, nomina nuda tenemus」
エーコはこの質問に、これはちょっとした悪戯だった答える。
Rosa(薔薇)をRoma(ローマ)に変えてみなさい。
この詩は、12世紀、ある詩人がローマについて書いたものがオリジナルで、当時のローマの状況を憂えたものだ。
「過ぎにしローマはただ名前のみ、虚しきその名が今に残れり」
ローマは共和制から、ローマ・カトリックの強権的な支配になって再び栄えているように見えるが、中身は全く異なるものになってしまった…と。
そして、何故、薔薇の名前だったのか。
この小説や映画のファンの間でも論争は続いていた。
中世では薔薇論争が宗教学者の間であったからだ。
いや、アドソの惹かれた農奴の少女の美しさをモチーフにしたのだ。
こうした、議論がずっと続いていたのだ。
しかし、事実は意外なものだった。
今、日本版のWikipediaは、薔薇論争のことが記載されているが、エーコのインタビューについてはアップデートされないままだ。
エーコは、この短いラテン語の詩で、彼の遊び心にも似た思いつきで、ずっと皆を惑わせ続けたのだ。
そして、僕は、邦訳の変更を20年もの間、その理由を知らず悩み続けたのだ。
あの邦訳は、そもそも意訳どころか、とんでもなく間違った訳だったのだ。
エーコは、僕達を惑わせて、自らは笑って見せたのだ。
「笑いの章」だ。
16年に亡くなったエーコは、真の智の巨人だったのだと改めて思う。
たまたまスターチャンネルEXで見付けて何となくショーン・コネリーの渋い顔に惹かれて観賞。思いっきりキリスト教のお話でした。ミステリーとしては本に毒が塗ってあったのでは?って事にわりかし早くわかってしまうのですが、キリスト教の思想に関しての方が面白く観れました。
いやー、でも改めてキリスト教って怖いわ~っと思いました。一神教って他は認めないから大変です。キリスト教の中でも派閥で別れているて、ハタから見たら同じキリスト教でしょ?ってなっちゃうのですが、やってる側からすると大違いなのでしょう。なかなか「仲良く喧嘩しな」って風にはならないみたいですね。でも自分達の思想を守る為に人殺しも辞さないって宗教として本末転倒な気もします。
あの当時はまだ活版印刷はなかった時代でしょうか?写す時は全部手書き!そりゃ本の価値も今とは比べ物にならなかったでしょう。見付けた時のウィリアムがメッチャはしゃいでましたし、それだけ本って貴重だったんですね。
雰囲気は14世紀当時の何とも閉鎖的なキリスト教の施設を良く再現してて良かったです。西洋の建物とか惹かれるものがありますね。ショーン・コネリーはカッコいいです。クリスチャン・クレーターが若い!そして、ロン・パールマンが出ててビックリ。よく似てるなぁっと思ってたら、まさか本人だったとは!
で、結局「薔薇の名前」ってあの村娘の事だったんですかね?メインの内容が宗教闘争ミステリーだったので、そこだとすると内容と題名と微妙にアンマッチなのでちょっと違ってる気もします。どうなのでしょう?
古い映画ですけど、
到着してすぐ、若い修道士が不審な死を遂げた。
ウィリアムは事件の解明を依頼されるが、すぐに第2の殺人が起こる。
◆感想
・ウンベルト・エーコの原作を読んだのは、中学生時代である。分厚い本で難解ではあったが面白く読んだ。
・映画はレンタルで観たが、面白かった。原作の世界観が、見事に画面に反映されていた。
<今作は、原作の重厚な世界観をキチンと描いた作品であると思います。>