スペインの名匠ビクトル・エリセが1973年に発表した長編監督第1作。スペインの小さな村を舞台に、ひとりの少女の現実と空想の世界が交錯した体験を、主人公の少女を演じた子役アナ・トレントの名演と繊細なタッチで描き出した。スペイン内戦が終結した翌年の1940年、6歳の少女アナが暮らす村に映画「フランケンシュタイン」の巡回上映がやってくる。映画の中の怪物を精霊だと思うアナは、姉から村はずれの一軒家に怪物が潜んでいると聞き、その家を訪れる。するとこそには謎めいたひとりの負傷兵がおり……。2017年、世界の名作を上映する企画「the アートシアター」の第1弾として、監督自身の監修によるデジタルリマスター版が公開。
ミツバチのささやき評論(18)
これだけ説明のない子供の話も珍しい、観る人によってさまざまな解釈が生まれても不思議ではないでしょう。セリフではなく心象は肉筆を通じた文として語られ、靴音やドアのきしむ擬音が立ち、陰影の多い絵画的描写、映像が淡々と続いてゆく。
感傷的に見れば廃屋でアナが出会ったのはスペイン内戦で出兵し消息不明の実の父、母テレサが手紙を送り続けた前夫と理解した、戦争で引き裂かれた家族の不幸に、帰郷を遂げようとした父に死と言う追い打ちをかけるという残酷な悲話でしょう。おそらくフェルナンドは亡骸を見て察し、テレサには告げたと思います、だからアナを責めず、テレサが手紙を燃やすシーンに至ったのでしょう・・。
ただ、後に映画祭で来日した監督の話では寓話の形を借りたフランコ政権の検閲逃れ、悲嘆にくれる庶民の心情のメタファーとして登場人物が描かれているようだ。死ぬまで安息の無い働き蜂の生態に憐憫の情を示しながらも傍観者的スタンスを取りつづけるフェルナンド、家族を見る目も飼育者に近い。夫婦とは名ばかりに思える描写、幼子をかかえ選択の余地は無かったのだろう、当時のまして異国のスペイン人の心情は知る由もないのだが、蜜蜂も登場人物も内戦後の庶民の実態の象徴だったのかも知れませんね。
キノコにも食用と毒キノコがあるとフェルナンドは子に教える、人もまたそうなのだろう。
フランケンシュタインを持ち出したのは寓話性の為の借景なのだろうが、怪物を創りだしたのも人間、犯罪者の脳が犯す残虐性と未発達な幼児性の同居する怪物は姉には猫の首を絞める衝動、無垢なアナには理解を超えた存在として受け止められる、これもまた世相の写し絵なのだろう。フランケンシュタインも最期は村人に殺されるのだが何故か非業の死を遂げた父とダブって見えたのだがあまりにも不釣り合い、父に描かれなかった何かがあったのだろうか・・。
人はなぜ死ぬのか、死ぬとどうなるのか、という、幼少期、誰もが持つであろう根本の問いをモチーフにした絵巻のようである。
家族の誰もが死と生に取り憑かれながら生きている姿が、悲しくも凛々しい。
本来はフランケンシュタインのようなホラーを撮影するはずが、様々な状況から本作のような文芸的佳作が生まれたとのこと。思うようにならないのが人生だ。それがこのような結果に結び付くのだからこそ面白い。
ポイントは3つ。
「フランケンシュタイン」「ミツバチ」「キノコ」
この3つの場面だけはいろいろ説明しているので、
その説明の文言をヒントに解明するしかない。
時代背景も色濃い。当時のスペインは内戦が終結。
それでも社会は混沌としており、この映画のフェルナンド家族もまた、
そんな社会情勢に翻弄されていた。
窮屈な社会=ミツバチの巣
新たな希望=創造物としてのフランケン
そして、キノコは死をイメージさせる。
台詞欲しいところも多々あった。
父フェルナンドは娘アナを何故に叱らないのか。
フェルナンドと後妻?テレサは一切の会話がないのは何故か。
何とも深い話だが、3回も見直して疲れました。
スペインの内戦が少年の心に深い傷を与える「蝶の舌」。
そして、この「ミツバチのささやき」も、同じくスペイン内戦が少女の心に大きな影を落とす。
どちらも静かに、しかし心の深い場所を揺り動かす映画体験を与えてくれる。