ソ連からイスラエルに移民してきたスター声優夫婦の第2の人生を描いたイスラエル製ヒューマンドラマ。1990年、ソ連からイスラエルへ移民したヴィクトルとラヤ。2人はソ連に届くハリウッドやヨーロッパ映画の吹き替えで活躍した声優夫婦だった。第2の人生を謳歌するつもりで移民をしたものの、イスラエルでは声優の需要がないという現実に直面してしまう。生活のためにラヤは夫に内緒でテレフォンセックスの仕事に就き、思わぬ才能を発揮し、一方のヴィクトルは、違法な海賊版レンタルビデオ店で再び声優の職を得る。なんとか生活を軌道に乗せはじめた2人だったが、妻の秘密が発覚したことにより、お互いが長年気付かないふりをしてきた夫婦の本当の声が噴出し始める。旧ソ連圏から移民したエフゲニー・ルーマン監督が自身の体験をもとに、海を渡ったロシア系ユダヤ人のリアルな姿を描き出す。
声優夫婦の甘くない生活評論(5)
試写会にて鑑賞。
第二の人生を謳歌しようとソ連からイスラエルに移住した、映画吹替えのスター声優夫婦のブラックユーモアと映画愛に溢れた悲喜こもごも。
甘くない現実に直面した夫婦が見つけたものとは…。
夫婦の生活と愛情の行方にハラハラどきどきして、映画好きにはたまらないエピソードにはニヤニヤしてしまった。
いい夫婦の日の試写会ということで、上映後に声優の古川登志夫さん&柿沼紫乃さんご夫婦のトークがあり、声優夫婦ならではのエピソードが聞けて楽しかった。
お二方ともお茶目でキュート。
男と女の違いだったり、夫婦像の固定概念だったり、移民問題だったり…
それぞれ一晩中語れる勢いです!(*゚∀゚*)
そんななかで私が最も注目したのは、声優であるヴィクトルが役者に転職出来ないところ。
長くなりますが
活動弁士が衰退した後、日本では洋画を字幕で観る文化が定着していた為、俳優業だけでは食えない人が副業で声の仕事に流れた経緯があり…(実際レジェンドと呼ばれるような人の中には「声優」と呼ばれるのを嫌った方もいます。)
その後、海外ドラマや洋画のテレビ放送が増え、ジャパニメーションの発展と共に「声優」の認知度が上がり、今ではむしろ憧れの職業ですけどね。
なので、私の中では「俳優」も「声優」も“演じる”という基本は同じで、声の表現とテクニックを使ってお芝居する人が「声優」という認識でした。
だから俳優に転向できないヴィクトルに驚き
「同じ声優でも、“吹き替え声優”はアプローチが違ったんだ〜!」と気づきました。
「声優」と一括りに思っていましたが、お仕事としては大きく二つに分かれていて
アニメなどに命を吹き込むアフレコと、既に完成している作品の魅力を伝えるアテレコ。(=吹き替え)
もちろん一概には言えませんが、イメージとしては
アフレコがゼロから肉づけていくクリエイティブな作業だとすると、
アテレコは作品を理解して意図に沿うよう表現する…どちらかと言えば職人的な作業のように感じます。
ヴィクトルは自分自身が「吹き替え声優」だという事を誰よりも良くわかっていたし、
映画という豊かな世界を観客に届ける「吹き替え声優」という職業に誇りを持っていた。
そう。映画は観客に届いてこそ映画だし、むしろ観客が観ることで初めて映画として完成する。
私達は映画を自分で選んで見ている気になっていますが、映画が観客の前に並ぶまでには、配給会社や興業主はもちろん、様々な人たちが関わっている。
そんな作り手と受け手の中間に位置する人達のなかには、映画の魅力の虜となって「商売度返しでも観客に届けたい!」という使命感で携わる“映画のしもべ”も数多くいる。
ヴィクトルは間違いなく映画を愛する映画の奉仕者だった。
妻への愛を拗らせたときに観る『ボイス・オブ・ムーン』のワンシーン。
映画への無償の愛が、映画からの愛に救われる瞬間でした。
そういった意味で言うと、妻のラヤはアフレコも出来る「声優」だったと思えます。
持ち前の順応力と適応力でゼロから居場所を作っていけるし、電話のお仕事でも相手に合わせたアドリブでゼロから役を作っていける。
自分の声を得たラヤは、ロシア時代には無かったであろう、自分自身の自由な表現に目覚めていくけれど…
やはりラヤも、映画への敬意が人生のターニングポイントとなる。
映画を愛した夫婦が映画に愛される映画でした。(*´ー`*)
ネタバレなしのレビューを心がけていますが、一つのシーンのちょっとしたカットに、それぞれの立場からの心理が描かれていて、その積み重ねが本当に素晴らしい!
(だから、いろんな角度から語りたくなるのですが…)
具体的に挙げるとキリが無いので、2つだけ紹介させていただきたい!
まずはネタバレの影響が少ない、ファーストシーン
ロシアからの移民達を乗せた飛行機のタラップから降りる、この短いシーンただけで
ヴィクトルの亭主関白ぶり、ロシアでの特権階級ぶり、そして「自分よりも妻を優先して大切に扱っている」と思っている節がうかがえます。
逆に妻のラヤは、今の自分達の立場を敏感に感じ取りながらも、この場を早く収める為に従順に笑顔を作る。
これまでの夫婦関係と、これからの夫婦関係のズレの始まりが見事に表現されています。
二つ目は慣れない仕事で痛めたヴィクトルの足をラヤが癒すシーン。
カメラが見下ろすアングルで描く“献身的なラヤ”はヴィクトルを思う愛情から、この仕事はしないで欲しいと頼むが、それは暗に「こんなのはあなたの仕事では無い」と言われたようなもので、見上げられているヴィクトル側は「家長として威厳あるヴィクトルでいて欲しい」といったプレッシャーを感じる。
そもそもロシアとの待遇の違いでプライドが傷つけられている上に、経済的な主導権交代の焦りから、益々相手を見る余裕が無くなって負のループにハマっていく…これまた見事なシーンでした。
異国でのゼロからのスタートには、夫婦の愛情や信頼が頼りなのに、
「常に夫は妻を守らなければならない。」→「妻よりも上の立場でなくてはいけない。」といった固定概念に縛られて、本当に彼女が求めている事が見えなくなっていく。
愛あるが故のすれ違いが辛いですが、悪気が無くてもトンチンカンな愛は、やっぱり押しつけの自己満足でしかない。
お互いを見つめる事が大事ってことですねd( ̄  ̄)
あと、書いておきたいのは、なんと言ってもフェリーニの素晴らしさ!
『ボイス・オブ・ムーン』公開当時、張り切って日比谷シャンテへ観に行き
「なんか、よーわからんけど、とにかく愛だな。」なんて生意気にも思ったものでした。
今の自分が見直したら、全く違う映画に見えてくるかも?
同じ映画でも、観る人の人生によってそれぞれ響くポイントが違ってくるのも映画の味わい深いところですよね。
若い頃には響いてこなかった部分がわかるようになったり。雪国で育った人はそんな景色だけで胸に去来するものがあったり。
結局、観客は映画を通して今の自分を見つめ直しているのではないでしょうか?
2018年『運命は踊る』2019年『テルアビブ・オン・ファイア』2020年『声優夫婦の甘くない生活』イスラエル映画から目が離せませんな〜(*´∀`*)
素晴らしい映画との出会いに感謝したくなる映画でした。
インテリでも話せなければ真っ当な職に就けず、夫が得たのはチラシ貼りの仕事。外回りの先で見つけた海賊ビデオ店で、違法の吹き替えをすることに。妻はロシア移民男性相手のテレフォンセックスのオペレーターに。若いセクシーな女を演じ、相手によって巧みに声色を使い分けて客を魅了し、ロマンスの気配も…。ままならぬ再出発、積年の不満も爆発して危機を迎えるシニア夫婦だが、とぼけた笑いと穏やかなペーソスでしみじみと楽しませてくれる。
ラブシーンは むしろ アガるため 大好物だが
キスシーンは 緊張するほうの あがる が 大半を占めるため シアター内の暗さの中でも スクリーンの照り返しで わかるくらい 頬を赤らめてしまう
そんな 私が 本作ラストの キスシーンで 涙した
純粋に 美しいと 感じた
愛し合う二人であっても 価値観が ピッタリ 合うことなどない
多少の ズレ 遊びがあるからこそ 認め合える
その意図が ビシビシ 伝わってくる キスシーン
単なる 愛 では 片付けられない 深さ 強さ 弱さ 生きる覚悟
全部 ひっくるめて 最高のキスシーンだった
私が キスシーンで 純粋に 涙したのは いつ以来だろうか
そんなに 重要視してきてないから わからぬ
もしかしたら 今世紀初かも
それくらい グッときた