かつて日本の山々に実在した流浪の民・山窩(サンカ)を題材に、孤独な少年とサンカの一家の交流を描いたドラマ。高度経済成長期の1965年。東京で暮らす中学生の則夫は、受験勉強のため田舎の祖母の家へやって来る。ある日彼は、山から山へと旅を続けるサンカの家族と出会う。一方的な価値観を押し付けられることに生きづらさを感じていた則夫は、既成概念に縛られず自然と共生する彼らの姿にひかれていく。「半世界」の杉田雷麟が映画初主演を果たし、心優しいサンカの娘ハナを「未成仏百物語 AKB48 異界への灯火寺」の小向なる、ハナの父・省三を「偶然と想像」の渋川清彦が演じる。ドキュメンタリー映画「馬ありて」で注目された笹谷遼平監督が、第18回伊参スタジオ映画祭シナリオ大賞を受賞した自身の脚本を基にメガホンをとった。
山歌評論(2)
『砂の器』や『瞽女GOZE』と併せて見ておきたい。
日本にも流浪の民がいたことを初めて知りました。
彼らの暮らしぶりや文化、コミュニティの規模も知りたかったのですが…
映画が描いていたのは「ラストサムライ」ならぬ「ラストサンカ」。
サンカ達がなぜいなくなってしまったのかが、主人公の葛藤を通して描かれていました。
高度経済成長でインフラが整備され便利な生活を手に入れた時代、“豊か”の価値観が統一されたのと引き換えに、多様性の“豊かさ”を失ったのかもしれないと思えました。
お互いのテリトリーを侵さず共存できていたものが、一方の価値観の押し付けでバランスを崩してしまう。
それはサンカに対しての限られた話しではなく「人間と自然」「国と国」も同じ構図に思えて、今の時代に考えさせられるテーマでした。
警官から受ける圧力は、サンカの生活や文化を否定するもので、とても暴力的に感じました。
みんなが一つの価値観に統一されるのは恐ろしい。
監督は「1965年を境にサラリーマン社会になった。」とおっしゃっていましたが、その代表のような主人公の父親は、ホワイトカラーになるのが息子にとっての幸せだと信じて疑わない。
豊かさをお金ではかる時代になり、日本という国家に連なるにも納税の義務が伴う。
財産を持たないサンカには、生きづらい世の中になってしまった。
土地や山も誰かの所有物となり、立ち入ると不法侵入。
山で採れたものや細工品を里山の人に売るにも行商には届出が必要となり、押し売り扱いで警察沙汰になるしまつ。
その昔、里山の人にとってサンカは外の世界の情報を運んでくれる存在であり、歌や踊りの非日常をもたらしてくれる存在であっただろうに。
自然の描写が素晴らしく、かつては大勢のサンカが集まった大木によりかかるシーンでは、木と人とが一体になっているようでした。
渋川清彦さんの気軽には寄せ付けない野生動物を感じる佇まいがすごい!
杉田雷麟さんの鬼気迫る演技。
小向なるさんの野山を駆ける身軽さとしなやかさ、真っ直ぐな目ヂカラも印象的でした。
そして、蘭妖子さんの存在に興奮しました。
1980年代から90年代にかけて、「サンカ研究会」というグループがあり、参加していたことがあります。そのグループが母体となって、「マージナル」という雑誌も発行していました。10冊で完結しました。80年代には五木寛之「風の王国」「戒厳令の夜」で三角寛の再評価が興ったのです。五木作品ではイメージとしてのサンカが、日本という国家の枠組を壊してくれました。その後、三角寛の娘婿の三浦大四郎氏が監修かプレデューサーとなって萩原健一主役の映画もできました。それ以来ですね。この映画ではイメージとしての「サンカ」と現実のサンカがごっちゃになっているのが気になりました。差別問題も。西日本では、いまでもサンカ部落は被差別だったりします。世間師(ショケンシ)という言葉もいまでも通じます。西日本では。また時代設定に無理があるように思います。ゴルフ場と結び付けたかったのでしょうが、大東亜戦争で日本人は全員戸籍が紐付られて、本当の意味で放浪民は、なくなったと考えてよいと思います。サンカの娘が「春駒」の唄を歌いますが、おそらく沖浦和光氏の本からのイメージでしょう。尾道のSさんが情報源だと思いますが、たぶん楽しい想い出につながる歌ではないように思います。いろいろ思い出させてもらって、刺激になりました。