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Summer of 85評論(20)
映画を観た後なんとなくナルキッソスが水面に映る自分に恋をして死ぬ話を思い出した 愛した人を手に入れられなかったり愛した人自体が虚像でも死によればそれ完成させられるんだろうか アレクシはダヴィドが本当は何を思って死んでいったのか知る由もないけれど、墓の上で踊る自分と彼の間だけの誓いを完遂することで彼との関係を誰からも永久不可侵の完成形にした。冒頭の彼のセリフがそれを表していると思った。
後半でアレックスのお父さんがダヴィドの死について、そういうことはある、と言います。そういうことはあると言われても納得できない、というのがたぶんアレックスの気持ち。だからダヴィドの死に顔を見たいのです、納得できない彼の死を受け入れるためには。
映画の冒頭でアレックスが語るのは、死を特別なものとして考えずにはいられない、これはそういう人のための物語だ、ということ。
けっしてひと夏の出会いと別れではないのです、アレックスにとって。
原作の小説も読んでみようかな。
80年代の半ばって、世界的に見ても文化が爛熟を迎え退廃に陥っていた頃で、閉塞感のせいで若者が無軌道に生きていたイメージがある。映画を見ていると、フランスでもそうだったんだな、という雰囲気がよく分かる。ベルリンの壁が壊され、新たな世紀を目前にして、これまで見たこともなかった新しい文化、コンピュータとネットワークが世界中を繋ぐパラダイムシフトまではまだ少し遠い、そんな時代だ。
そして(こういう言い方はどうかと思うが)退廃といえば同性愛である。
主人公は青年ふたり、ダヴィドとアレクシ。アレクシは少年でも通じるくらい幼さが残っている。この二人がまた大変美しい。正直若い男の子に興味はないのだけど、このふたりは良い。そんなふたりがいちゃつくのを眺めているだけでも良いのだが、やがてふたりの間に決定的な破滅が訪れ、酷い別れ方をした直後、ダヴィドは無謀な運転の末バイク事故で亡くなってしまう。
二人の幸福が絶頂の頃、ダヴィドは「どちらかが死んだら、残された方は墓の上で踊る」ことをアレクシに誓わせていた。物語はそれを実行したアレクシが逮捕された時点を境に分けられ、2つの時間軸を交互に描いていく。逮捕されたアレクシは、二人が過ごした「362時間8800秒」を小説として書き出す。見つめ直し再認識することで、ダヴィドとの日々に訣別を果たしたアレクシが新たな一歩を踏み出すところで、物語は終わる。
考えてみれば、わたしはアレクシとほぼ同年代だ。だからこそ、まだ大人になりきらない世代の目から見たあの時代の空気感に、共感と郷愁を覚えるのだろう。これに関しては本当に見事だと思う。
そして自分はさておき、あの時代に青春を送るという体験の瑞々しさについても、「青春の瑞々しさ」という世代を超えた共通感覚は別として、なんというか痛いようにわかってしまう、伝わってしまうものがある。ああ、なんかちょっとひりつくような、こそばゆいようなこの感覚。
フェリックス・ルフェーヴルかわいすぎ。80年代のお洋服似合いすぎ。恋のキラキラ感も最高。あと、男性同士にしろ女性同士にしろ、同性愛の映画だとなぜか性描写が克明(?)になりがちななか、そうではなかったところに好感を持った。
ただ、人ひとり死んだのに、“ひと夏の初恋が終わって少年は成長したのでした”的にまとめられてもなんか釈然としない。ケイトもかわいくて好きだけど、ゲイカップルの純愛ストーリーに(物語内の役割上)都合よく奉仕させられている感がある。BLの同人誌ならそれもアリだけど、商業映画にはもうちょっと丁寧な描写を求めたくなる。
見る前と見た後の感想は随分違った。
しょっぺ〜しょっぺ〜よ〜。
登場した時からダビッドはちゃらい感じはあったけど。
アレックスと女の子の関係は可愛かった。
私もダビッドに勝手な理想像を作ってしまってたせいかな。
アレックスの不器用な恋は本当に可愛かった。
原作あるけど、オゾン監督は主人公に厳しい恋愛映画多いw