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ベルサイユの子評論(2)
幼い子供時代に受けた心の傷と言うものは、その後のその人の生き様に多大な影響を及ぼすものである。このエンゾ少年は一体どの様な大人になって生きていくのだろうか?
母親のニーナに手を引かれながら、パリの夜空を彷徨う親子2人。
やがて朝になり、パリの街をあても無く彷徨い続けた先で、ベルサイユ宮殿近郊の森の中へと迷い込む2人は、森で暮らすダミアンと言う世捨て人と言うには、余りにも若い青年に出会い、そして母ニーナは大きな決意をする・・・
幼い子供にとって親の存在とは自己の生命の生存上には絶対的な生命維持装置そのものと同様の役割と価値を持っているはずだと私は認識している。しかもそれが女親であればなお更の事である。
しかし、最近の日本ではイクメンと呼ばれる育児パパや、専業主夫として子育て休暇を取って育児に専念する男性も決して珍しくない時代になっては来ているので、女親が総てと決まっているものでも無いようだ。しかし、保育園前や、就学前の子供にはやはり母親の細かい気配りの行き届いた子育てが通常の場合は必要なのではないだろうか?
古いと言われるかもしれないが、そんな視点からこの映画を観ていると、このエンゾと言う少年はどんな大人に成長していくのだろうか?と彼の行く末が不安で一杯になってしまって、画面から目が離せなくなってしまった・・・
母親に置き去りにされたエンゾをダミアンは理不尽な事と怒りつつも、その子供を自分も更に置き去りにする事が出来ないままに、疎遠になっていた、父親の元に帰り、同居をして、ダミアンは、父親の勧めで、就学出来るよう、エンゾをダミアンの子供として、認知させ、実子として育児を出来るようにさせるのだが、元々ダミアンは社会生活を自分自身でも巧く営んで行く事が出来ないタイプの人間であったのだから、優しさはあっても、子育てと言う忍耐は兼ね備えていないようだった。こうしてエンゾは再び義父となったダミアンにも捨てられてしまう。幸いダミアンの父とパートナーがいてくれて、生活の面倒は保障されているのだが、心はますます内向的で、反抗的な、子供らしい天真爛漫な明るさとは無縁な子供へと成長せざる負えなくなる。
例えこの映画はフィクションであっても実際には、これに似たケースの家族はきっとこの大都会の中には多数いるのだろう・・・
それこそが大都会のパリの姿だろう、何もパリに限らず、日本でも、欧米でも、或いはアジアの国々でも、共に暮らす事が許されぬ、同居が叶わぬ親子がいる事だろう。
親となる事をもっと忍耐強く真剣に生きる責任を回避してしまった親がきっとこの世には多数存在している事だろうが、その責任の所在の中には一個人の責任問題だけでは決して片づけられない社会制度や、国の経済事情の問題もあるだろう。そしてこれらの捨て去られた子供たちの人生を、只単に、運命と呼ぶには余りにも乱暴な側面が存在する。
この映画は改めて、家庭の素晴らしさ、大切さ、そして親の存在の有り難さをしみじみと
心に問いかけてくる作品だった。また、ダミアン役の俳優の遺作である事を残念に思う。
ダミアンにしろエンゾの母親にしろ身勝手な様に見えますが、彼らなりに必死に生きているのかもしれません。ダミアンの様な人は世界中で増えており、先進国と言われる日本でも貧困化が進んでいます。6人に1人の子供が貧困状態となっていますが、エンゾの様な子供に罪があるとは、自己責任があるとは思えません。子供の貧困化を防ぐには、親を貧困化させないことにつきるのではないのでしょうか。そして、「自己責任」という言葉の意味を改めて考えてみたいと思います。