ビットリオ・デ・シーカ監督によるネオレアリズモの代表的名作。盗まれた自転車を取り戻すべく奔走する父子の姿を通し、戦後の貧困にあえぐイタリア社会をリアルかつ悲哀に満ちたタッチで描き出す。第2次世界大戦後のローマ。不況により長らく失業していたアントニオは、職業安定所の紹介でポスター貼りの仕事を得る。仕事に必要な自転車を質屋から請け出すため、彼は妻の嫁入り道具であるシーツを質に入れる。街に出てポスター貼りに精を出すアントニオだったが、少し目を離した隙に大切な自転車を盗まれてしまう。警察に訴えても相手にされず、6歳の息子ブルーノを連れて自転車を探し歩くが……。キャストには演技経験のない市井の人々を起用。1950年・第22回アカデミー賞で特別賞を受賞した。
自転車泥棒評論(13)
イタリアの貧しい時代、なんとも切ない親子の物語。
放置自転車大国のいまの日本ではもう考えられない世界。テーマをいまの時代に当てはめて考えることは簡単ではない。
映画としてみるとまごうことなきネアレアリズモの記念碑的傑作。
映画というものの在り方、芸術というものの在り方を考え直させてくれる必須科目にある作品。
映画のリアリズムというものの凄みをこれでもかと学ぶことができる。
その表現の前では、「演技の技法」などというテキストも価値がない。
絶望、胸がキリキリとしめつけられ痛くなる映画です。切ないなんて言葉では足りない。けれど、私にとっては、もうダメだと絶望につき落とされた時に頭を過る映画の1つです。映画の中には希望のかけらもないのにね。
「イタリア・ネオレアリズモの代表作」と聞いていたので難しそうだなあと敬遠していました。けど、そんな頭でっかちな評(評論家の方々ごめんなさい)なんか置いておいて、とにかく観てほしい映画です。
下記のような”あるある”感が”イタリア・ネオレアリズモ”? 丁寧に描かれています。素人役者と知ってビックリするほど。
自転車盗まれる前に鍵かけなさいって、その鍵買うのにもお金がいるんだよ。
食べることにも困るような、仕事もない不況でサッカーに興じているなんてさって、やることないから、その時その時に興じれる、盛り上がれるものに集中して発散しているんだよ。こういうのがないと暴動にも発展しかねないし。
ましてや明日は明日の風が吹く、アントニオみたいにせっかく手に入れた仕事だって、明日にはどうなるかわからない。だから一瞬一瞬に打ち込んで楽しむしかないんだよ。
コミュニティが皆でコミュニティの一員かばって、アントニオをボコボコにしてって、そういう結束力があるから無職になってもなんとか食べていけるんだよ。一人は皆の為に、皆は一人の為にってね。
という風に、赴任していた”発展途上国”と言われる国をそのまんま思い出すような”あるある”感満載の映画。
そんな背景の中で紡がれる物語。
「仕事に必要な自転車がない!!!」→「仕事に必要な●●がない!!!」→「失職する!!!」という恐怖感。
例えばデータがLOSTしちゃったとか etc…。人生で次々に遭遇する喪失感・絶望感。「ああ、このままじゃ破滅だ…」ムンクの叫びそのままの世界。その焦り・絶望・驚愕。
アントニオのパニックがわが身に降りかかる。なんとか挽回しなきゃと闇雲に放浪(探しているつもりでも論理立てて探せない)。藁をもすがるつもりで、頼りにならない人ー時にはかえって混乱させてくれる人々への相談。落ち着け自分、元気出せ自分とばかりに、かえって事態を悪化させるような行動をとってしまう。挙句の果てに…ああ、あれさえあればこの危機を乗り越えられる。視野狭窄。そして自分の首を絞めて、さらなるドつぼへ…。ああ。アントニオの行動そのまんま。
もうダメだ。どうしようもない。奈落の底に落ちた自分。生きていくことさえ苦痛になっていく絶望感。
古い映画ですが、アントニオはそのまんま、右往左往している今の自分。ここでも”あるある”感満載。
そしてラスト。
子どものブルーノが泣きながら、全てを失って茫然自失となっている父であるアントニオの手を握ろうとする。だが、父はその手を振り払い握らせない。情けなくって情けなくって、子どもの手を握り返せないのだろう。でも子どもは諦めない。何度振り払われても父の手を握ろうとする。そして何度目かに、やっと父はこの手を握る。その手を子が握り返す。そして今度は父はしっかりと子どもの手を握りしめ、二人は歩いていく。
この手がある限り、死んではいけない、そう思う。そういう映画です。観てください。
ドキュメンタリーのようなリアルなタッチとシンプルなストーリー、時折描かれる持てる者と持たざる者の描写や善良な心の葛藤は叙情的かつ素晴らしい深みを生み出している。
実際に当時のイタリアでこのような自転車泥棒は毎日のように繰り返されていただろうと今になっても容易に想像することの出来るリアルさがこの名作の真骨頂だ。
デ・シーカはその鋭い洞察力で当時のイタリアを他人を思いやることさえ出来ない世であったことを映画という媒体を通して伝え、映画の可能性を押し広げたと言える。
そして、その圧倒的な写実主義の映像は映画という枠を超え、今でもなお残るイタリアの格差問題を浮き彫りにしている。