52ヘルツのクジラたち
プロット
日本
03月01日 台灣上映
コットンテール
プロット
イギリス・日本合作
03月01日 台灣上映
METライブビューイング2023-24 ビゼー《カルメン》
プロット
アメリカ
03月08日 台灣上映
恋わずらいのエリー
プロット
日本
03月15日 台灣上映
FLY! フライ!
プロット
アメリカ
03月15日 台灣上映
RED SHOES レッド・シューズ
プロット
オーストラリア
03月15日 台灣上映
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HOUSE ハウス評論(19)
何故か大林監督の映画が急に無性に見たくなり何枚かDVDを借りてきたら、訃報が飛び込んで来ました
斬新な映像です
21世紀の現代から何の予備知識もなく本作を観てもどこが斬新なのか分からないと思います
本作のような映像がいまでは当たり前になっているわけなのですから
昭和は歌謡曲か演歌しかなかった時代
そこに山下達郎さんなどのニューミュージックが生まれて日本の音楽界に革新が生まれたのです
ニューミュージックがその後のJ-POPの母胎になり、今日の日本の音楽のルーツはそちらにこそ根ざしていると思います
本作は日本映画のニューミュージックのようなものなのです
歌謡曲か演歌しかなかった日本映画を革新したのです
CM界の大林監督がいきなりメジャーの東宝でプロデューサー兼監督で映画を撮らせた東宝の凄さもまた驚嘆すべきことだと思います
大林監督は日本映画を革新したのです!
なかなか見る機会に恵まれず、今回が初鑑賞。色々噂には聞いていたが、確かに聞きしに勝る。
見た人によって傑作でもあり、駄作でもあるが、間違いなくこれだけは言える。
カルト怪作!
お嬢様学校に通う“オシャレ”。
夏休みを仕事で留守の多い父と軽井沢の伯母の家で過ごすのを楽しみにしていた。が、父は再婚相手と3人で過ごそうと言う…。
オシャレは友達を誘って、伯母の家に遊びに行く事にした。
序盤はさながら美少女たちのPV。
明朗な青春モノとドタバタ漫画劇。
都会の街並みや軽井沢の風景画など背景が作画だったり、風変わりな作風はすでにこの頃から。
周りが自然に囲まれた伯母の家に到着。車椅子の伯母は嬉しそうに迎えてくれる。
…が、怪現象相次ぎ、一人一人消えていく。その度に、伯母が若返っていく。
実はすでに伯母は亡く、若返る為に彼女たちを食らう“人喰い屋敷”だった…!
まるでアサイラム作品のようなB級題材。
しかし、この異才の手に掛かれば、何とも形容し難い作品に。
この手の作品のお楽しみはスプラッター描写だが、直接的な生々しい描写や流血は避け、チープな特撮や合成で漫画チックなコミカルな表現に。
それでいて、きちんとホラーらしい生首や目玉の造形も。
スプラッターと言うより、ファンタジータッチのホラー・コメディ。
そこに、大林監督のやりたい放題を投入。
もう本当に、“怪作”としか言い様がない。
伯母には、戦時中婚約者を亡くしたという悲しい過去が。霊体となった今も待ち続けている。
本作の後に企画したのが、2017年発表の『花筐/HANAGATAMI』。反戦メッセージはすでにもう。
大林作品と言えば、美少女。池上季実子が何と初々しい。
大林監督の得意技の一つである“脱がせ屋”としても早々と。
リアルタイムで見た人はどう思っただろう。
スゲー鬼才が現れたorヘンな監督が現れた。
これから手掛けていく作品も傑作があれば、駄作も怪作も。
でも、どれを取っても誰も真似する事が出来ない唯一無二の大林作品。
その作品群はここから始まった。
だから敢えて言おう、名作であると!
若かりし日の女優達が拝めば、タイムマシンに乗ったような新鮮さを感じられる。池上季実子は美しく、大場久美子は愛らしい。神保美喜のクンフーが躍動する。鰐淵晴子の麗しさも健在である。
<嫉妬と変態で頭が壊れ犠牲者は無垢な女>
日本映画専門チャンネルで大林宣彦監督の特集の時に録画。デ
ビュー作品との事。ウィキペディアで調べると、大林監督はCM監督から、映画の助監督経験なしで監督をして悶着があったらしい。ファンタジーコメディーホラーとの事だが、どうしてこんな作品が作られてしまうのか私は理解していないほうである。ファンタジーだろうがなんだろうがホラーはみたくはなかった。だが、選んでしまった。私は50歳だが、出演者の女子高生役が池上季実子とか大場久美子とか、10歳近く年長の、思春期には一線のアイドルや女優として活躍していた世代の人たちである。これを書いている時点では60歳くらいの人たちである。映像の遊び感覚みたいなところはあるが、どうして女子高生たちが家に食べられていくしかなかったのだろうか。戦争でフィアンセ(三浦友和だ)と死別しなければならなかった南田洋子扮するおばさまの生霊としての怨念だからか、としても、なぜ若い女子高生に向けられるのかも意味はわからない。嫉妬する対象が違っている気もする。7人の女生徒が出て来るが、池上、大場の他にも、神保美喜(この作品でのエロ度は出されている。パンティーみたいな緑のパンツでずっといる。)もメジャーになったし、松原愛もなんとなく名前だけはくらいだったが、私としては、最初に食われたマックという女生徒が一番アイドル系だと思った。ポッチャリ型ではあるが、ルックスは池上、大場以上のような気もしたが有名にならなかった。しかしこんなのを思春期にみていたら、(私が10歳だと思春期少し前か?)頭がおかしくなっていたかも知れない。(変わらないか)。大林監督なら、『時をかける少女』のタイムトラベルの場面のような画面の不安定なんかはノスタルジックな気さえするのだが、ホラーにしてしまうと、ノスタルジーも無いではないか。懐かしいおばさん女優になってしまった人の若い頃という興味はあるかも知れない。それとか『さみしんぼう』とか、心情に訴えるような面と映像の不思議さが合っているなら大林作品は良いと思うのだが。デビュー作ではあるが。1977年という時代もどうだったのか。いい加減でひどい時代でもあったのだろう。今の時代もただ除菌された振りをしているだけか。『時をかける少女』とか、一部分の作品だけ見てしまうと、大林氏はすごい人格的な人なのかと勘違いしてしまうが、この作品をみると、大した人でもないんだからと軽く思えるメリットはあるのかも知れない。どうして好きなピアノに食われるしかないのか。まるで意味がわからない。どういう深層心理を得たいのだろう。変態養成なのか。分裂的イメージに何の意味があるかわからない。少し映像にキレイだと思う面も感じると自分も怖い。ただ現在のCGの発展以前の和製映像技術としてのほうの意味があったのか。尾崎紀世彦などが出ているナンセンスな所も一体なんだろうか。意味なく面白いという。分裂している。背景の音楽のオルゴールのチクタクもなんだか気持ちがいいのだが、映像はホラーだが、怖いというのではなく、変態。何をこの変態エロスで訴えたかったのだろうか。家という強力に思えた構造と新しい女性たちの戦いという社会的な深層心理も含ませているのだろうか。だが、家がそんなに女性たちを苦しめてきただろうか。家というしっかり構築させてきた構造を破壊しようという衝動が若い女性たちが食われるという未遂として構成されたのか。女性の身体をバラバラにしてヌードでみせるという場面。白い結婚装束から大量の赤い血が流れだす場面。
これは女性の心理的な従来の構造からの脱出だとみなすのか、しかし女性蔑視になるに過ぎないか。カメラのシャッターかなにかか違うか、何かに原爆の映像が合わされた場面もある。戦争からの異常心理の名残を見せたかったか。女生徒たちが死んでいくならば、哀惜の念で辛い映画なはずなのに、ホラー性で全然悲しくもなく、オールヌードで水中で溶けていったのはどの女優かわからない。大場久美子がマゾヒスティックな役柄で痛めつけられる。たしかに美少女ではあった。
なぜか乳首を出した池上に抱かれて安心している大場。熟女にまではいかないが、池上とのコンプレックスがあった、池上の父親の後妻の鰐淵晴子が色気ポーズで人食い屋敷になぜか訪ねてくる。確執していた池上と会うが、池上の目からの火炎光線で焼かれてしまう。こうした親へのコンプレックス、南野の戦争でフィアンセが失われたコンプレックス、そんなところか?最後にシャンプーのコマーシャルに出てきそうな清純池上季実子の映像で、南田洋子だろうか、ナレーションが入る。肉体は滅びても大事なのは愛だとかなんだとか、よくわからないことを言う。何人かは有名になる寸前だったらしいが、最後にゴダイゴなのかなんなのか、英語らしい音楽で終わる。この映画から40年。日本の性の在り方は分裂し、わけがわからない状態のままだった。こうした変態作品を、のちに気落ちいいファンタジーを作ったこともある大林はなぜ始めに作らなければならなかったのか。わからない。ああ、わからない。国家が狂っていたら、明るい女生徒たちも食い殺されてしまうという風刺か。