ナポレオン(1955)
プロット
フランス
06月15日 1956 台灣上映
0011ナポレオン・ソロ対シカゴ・ギャング
プロット
アメリカ
03月21日 1967 台灣上映
0011ナポレオン・ソロ スラッシュの要塞
プロット
アメリカ
01月02日 1968 台灣上映
本站關於電影海報,預告,影評,新聞,評論的綜合性電影網站,我們提供最新最好的的電影以及在線影評,業務合作亦或意見建議請電郵我們。(Copyright © 2017 - 2022 KKTM)。聯絡我們
ナポレオン評論(20)
映像のクオリティがとても高かった。
特にアウステルリッツの戦いの描写には、恐怖を覚えた。
歴史のお勉強として「アウステルリッツの戦い」という名前は知っていても、それ以上何かを思ったことはこれまでなかった。
だが、この映画は何が正しいだとか何が悪だとかを語らず、淡々とナポレオン(またはナポレオンの敵方)の戦略で戦局が進み、兵士が死んでいく様を生々しく描写しているため、自分もこの時代に生まれ兵士となっていたら、このように駒として動き、死ぬのかと、苦しく感じた。
「祖国のために死んだ勇敢な兵士たち」「戦争の悲しさ」などのメッセージ性にフォーカスせずに描いているため、余計に生々しく映った。
また、エロシーンがとにかく生々しく、スケベで、お下品だった。(良い意味で)
局部が映っているとかそういった生々しさではないのだが、なんというかリアルなスケベおじさんの迫り方で、観ていてムズムズした。
映画館の隣の席が若いカップルだったため、なんとなく気まずい気持ちになった。
「フランス、陸軍、ジョセフィーヌ」
ナポレオンの最期の言葉として有名だが、この映画は偏りなくそれぞれをしっかりと描いている。
そのため、映画に何か一つの強いメッセージ性だったり、派手な見せ場を求める人にはきっと向かないだろうと思った。退屈だと感じる人も多いんじゃないかと思う。
私も個人的には良い映画だと思ったが、人に薦めるには言葉が見つからないなと感じた。
下町のナポレオン!私の辞書に不可能はない!など聞き馴染みのあるフレーズは置いといてレビューを。
先ず映像として最高でしたね、全体的に変に大袈裟に描かないのが逆に生々しくリアルでした。登場人物も華美に加工されない衣装や髪型などが匂いがするほどで、当時はこんな感じなのかと目を凝らして観てました。
物語りも劇的ドラマチックいうより、人間臭い仕立てで戦争シーンの間でさえナポレオンの内面にフォーカスしてしまう構成に脱帽。
意外と取り上げられない重要な歴史的な出来事もありますが、制作側も描きたい事があり過ぎて削ぎ落とす苦労があったんなろうなと思います。
実際にこの世にあるナポレオンのありとあらゆる文献を集めまくって作ったそうです。
臨場感たっぷりで映画好きには響きますが、ミーハー的エンタメ感はあまりありません。
賛否分かれるとこですが、つまらないという人がいそう。もっとわかりやすく、歴史に忠実で、あそこはこう描いて欲しいとか思うタイプの人がわきそうな映画。
私が好きだなと思ったのは、歴史上かなり有名な人物であってもそれを神格化せず一個人として描き、心の葛藤や人間模様を残された文献から探り肉付けし、想像した世界を映画として作り映した所。もっとドラマチックにオーソドックスに描く道もあったのに。何というかナポレオンの半生をホリエモンが逮捕されるまでの騒動と同じくらいのスケールでその現場と当時を駆け足で覗き見た感じ。なのに映像は超一級という。
まぁ贅沢な映画です。こういう映画って最近なかったなぁと思いました。
とにかく有り余る程の見所と細部までの気付きにくい拘りなど満載で、当時の出来事や人物の解像度を上げてくれる映画です。
ナポレオンは”愛”の人であった。
なによりフランスを”愛し” なによりジョセフィーヌを”愛した”
ナポレオンとジョセフィーヌのように、真の友として、愛し合えたならば、幸せな生となるのだろうか。
「愛ゆえに喜びを得、愛ゆえに苦しむ。」そんなナポレオンが描かれていた。
映画にする以上、面白い作品となるよう歴史が切り取られているのだと思う。
だからこそ、ナポレオンについてより詳しくなってから、もう一度見返したい。そう思える映画だった。
この映画には2つの側面がある。1つは、度々劇中で繰り返される"I'm nothing without you"というセリフに象徴される男女の愛憎劇である。もう1つは、スペクタクルな戦争映画である。この映画はどちらかに焦点を当てるべきであった。もちろんリドリー・スコットが焦点を当てるべきなのは、後者の戦争映画としての側面である。男女の愛憎劇としては、特にその前半は『ジョゼフィーヌと犬の僕』というタイトルが思い浮かぶような下品なギャグ映画にしか思えない。リドリー・スコットには男女の愛憎劇は向いていない。
この映画は、(ジョゼフィーヌと離婚してからの)戦争映画としての側面がやはり面白い。中盤のアウステルリッツの戦い、モスクワ遠征、エルバ島からの帰還、そしてワーテルローの戦いはリドリー・スコットの面目躍如である。特にエルバ島から帰還したナポレオンが兵士たちに語り掛けるシーンで初めてナポレオンのカリスマ性を感じた。問題はこの映画ではそのシーンしか、ナポレオンの偉大さを感じられなかったことである。
フランス人がこの映画に低評価を与えるのは当然であろう。イギリス人ならワーテルローの戦いでのイギリス軍の勇敢さと規律正しさに気分をよくするだろう。日本人なら...やっぱり豊臣秀吉とくらべるかなぁ。ジョゼフィーヌは北政所か。フランス人女性と日本人女性の気質の違いがよく分かる。
フランスの英雄ナポレオンの生涯は英国人フィルムメーカーの心を捉えるのだろうか。スタンリー・キューブリックは1960年代末にナポレオンの伝記映画に着手し脚本も書いた(NAPOLEON Screenplay by Kubrickでネット検索するとPDF版を閲覧できる)が、1970年のイタリア・ソ連合作映画「ワーテルロー」の興行的失敗により、キューブリックの企画も頓挫してしまった。それから半世紀を経て、やはり英国出身のリドリー・スコット監督がついに本作「ナポレオン」を完成させた。脚本は「ゲティ家の身代金」で組んだデヴィッド・スカルパ(2024年米公開予定の「グラディエーター」続編にも起用されている)。
製作費は2億ドル(約290億円)とも言われ、総勢8000人超のエキストラ、最大で11台のカメラを同時に回したという合戦のスペクタクルに潤沢な予算を投じたことが如実に表れている。中でも1805年にオーストリア・ロシア連合軍と対峙し、ナポレオンが軍事的天才と悪魔のような残酷さを発揮する「アウステルリッツの戦い」のシークエンスでは、俯瞰による壮大なスケールと兵士の視点による戦闘の臨場感が絶妙に配され、このダイナミズムと映像の情報量は劇場の大スクリーンでこそ満喫できるものだ。
ただし、本作はナポレオン・ボナパルトをめぐる史実を忠実に描く伝記映画ではない。先述のアウステルリッツの戦いにしても、凍ったザッチェン湖で描写される部分は“伝説”であり実際には起きなかったというのが定説らしい。ジョゼフィーヌ(バネッサ・カービー)との関係性にも創作が多く含まれるようだ。
スコット監督の主だった歴史大作を振り返ってみても、ローマ帝国、エジプト、中世から近世のフランスといった非英語圏の歴史を、米英の資本で英語劇として映画化したものが大多数だ。「グラディエーター」「キングダム・オブ・ヘブン」「エクソダス 神と王」「最後の決闘裁判」そして本作もしかり。米国市場での興行を考えたら英語ネイティブのスターを起用して英語劇にするのは必然で(興行的成功が見込めるからこそ巨額の資金が集まるという面も当然ある)、ハリウッドの歴史物や戦争物ってそういうものだという慣れもあるだろうし、人種的にも言語的にも隔たりのあるアジアの観客にとってはさほど気にならないかもしれない。
とはいえ、史実に基づかない創作を多く含むこの米英合作の「ナポレオン」が、かの英雄の母国フランスでおおむね不評というのもわかる気がする。たとえばこんな風に置き換えて想像してみてはどうだろう。将来中国が米国に並ぶ映画輸出大国になり、外国の歴史を題材とする中国語の映画も量産するようになる。秀吉の生涯を描く作品も、中国人俳優が主演する中国語劇で、史実に基づかない創作エピソードが多く、笑いと哀れを誘うセックスシーンもあったりする。これを日本人が観たら、日本の歴史や文化に敬意を欠いている印象を受けるのではないか。非英語圏の歴史が米英主導で英語劇として映画化されるという“20世紀の当たり前”も、そろそろ考え直す時期なのではないか。そんなことを思った。