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追われる男 プロット アメリカ 07月31日 1955 台灣上映
溺れる人 プロット 日本 05月25日 2002 台灣上映
怒れる若者たちの遊び プロット スウェーデン 01月01日 1900 台灣上映
二十歳の恋 プロット フランス・イタリア・日本・ドイツ・ポーランド合作 04月01日 1963 台灣上映
二十歳の死 プロット フランス 11月08日 1997 台灣上映
濡れた二人 プロット 日本 11月30日 1968 台灣上映
十二人の怒れる男評論(20)
・ラストに泣けた
・本当は被告に情があったが、息子を憎む気持ちでそれを否定していた
・そして自分のなかに抑え込んでいた愛を認めた
・なんで自分を大切にしてくれないのかという怒りの奥に、ものすごい純粋な人間の愛がある
・愛は湧いてしまうもの。誰もそれをコントロールはできない。
・民主主義の映画
・誰もが何を言ってもいい権利がある
・大事なのは、言っていることが、嘘のない言葉かどうか
・それを最後はみんなで見つめた
・葛藤している、だらしない、だめな、自分勝手で、わがままで、誰かを蹴落としたくて、そんな大丈夫じゃない人間模様をただ描いている。
「白黒映画か」「60年も前の映画か」と、どこか斜に構えて観ていました。
しかし、観ていくうちにどんどんと引き込まれていき、最後まで全く飽きることなく観てしまいました。
12人のオッサンが暑苦しく雁首揃えて議論するだけの映画なのに、何故こんなに面白いのか。汗だくで熱弁する12人のオッサン達が何故こんなにも魅力的なのか。
「古い映画だから」と偏見を持たずに、騙されたと思って観てみてほしい。本当に面白いから。
証拠を反芻して意見を言い合うだけなので密室での会話劇ですが、舞台でいいのでは?と思える映画もありますが、これは映画だから良いのだと思います。
まず冒頭ののスムーズな登場人物の何気ない会話でキャラクターがわかります。
そして議論が始まると実際に議論をした際のあるある、偏見、思い込み、強弁、放棄、人格攻撃、論点のすり替え、ずれ、事実と意見の混合、根拠の無い主張などなどが各キャラクターに合わせて繰り出されます。
そして前提のずれ。
無罪というのは映画冒頭や主人公が言っているように「殺していない」ではなく「殺したと確信できる根拠がない」ということで、
「どこまでを確かであると見なして共有し、
どこからが意見の相違となるか」
を合意しようとしただけ。
他の陪審員は徐々に根拠が曖昧なことに気づき、自分の意見に自信がなくなったり苛立っ行く様子が表情や態度に表れてきます。
悪態をつかれた主人公が心配された時に返した「(あの人は)普通の人ですよ」
上記のようなことは会議などで本当によく遭遇するもので、自分の意見通すのに必死で、客観的には分からない事が多いですものねぇ(自身も含め^^;)
天気や扇風機などの演出で議論の白熱、暗礁に乗り上げた感じ、終わったあとなどの晴れやかさが伝わってきます。
謎ときとして観してまうとさほど驚くようなものではないですが、観るべきものはたくさんあると思います。
自戒のためにも繰り返し見たくなる、そんな映画でした。
ヘンリー・フォンダが初めにただ1人反対した理由が、無罪を確信したからではなく話し合いをするためというところが良い。
1人でもそういう人がいる限り、その意見を無視することなく、汗だくになって声を荒げながらも議論が続けられるところにアメリカの民主主義の深さを感じる。
個人的な先入観を抜きに証拠を基に判断を下すことの難しさ。
被害者による証言をどの程度判決に反映すべきか、という政治哲学の論争を思い出してそれもまたいろいろと考えさせられた。
ところが登場人物も少ない白黒の映画にあっという間に引き込まれ、二転三転する男たちの意見に、無罪なのか有罪なのかドキドキしながら見た記憶があります。
その後何度か見返してこの映画の素晴らしさが改めて分かったような気がします。
まず俳優たちの演技が素晴らしいですね。それぞれの人の個性が際立っていてアメリカ人のことをそんなに知らない私でも、実際にこういう人物がいそうと、すんなり受け入れられました。クールでありながら正義に対する情熱を持っている8番(ヘンリーフォンダ)は何よりかっこよかった。
演出は最小限の情報を小出しにすることで、観客の想像力を掻き立て、そのあとの展開が気になり前のめりにさせる。こういった手法は映画作りでは基本的なことかもしれないが、ここまでシンプルに作って成功している例は、未だ見たことがないですね。(下手をすれば序盤で観客が興味を失ってしまうリスクがある)
それから計算しつくされたカット割り。時には長回しがあり、いつの間にかスッとカットが入っていたり。舞台を見ているときの観客の視線を意識しているように感じられる。