イギリス人作家グレアム・グリーンのオリジナル脚本を名匠キャロル・リードが映画化したフィルムノワール。第2次大戦終戦直後、米英仏ソの四カ国による分割統治下にあったウィーンに親友ハリー・ライムを訪ねてきたアメリカ人作家のホリー。だが、ハリーの家に着くと守衛からハリーは交通事故で死亡したと告げられる。腑に落ちないホリーはウィーン中の関係者をあたり、真相究明に奔走するが……。出演はジョセフ・コットン、アリダ・バリ、そして謎の男ハリー・ライムにオーソン・ウェルズ。カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞。1949年製作で、日本では52年に劇場公開。2020年8月、人気声優による名画吹き替えプロジェクト「NEW ERA MOVIES」で新たに制作された吹き替え版(ホリー・マーチンス役=平田広明/ハリー・ライム役=鈴村健一/アンナ・シュミット役=本田貴子)で公開(モービー・ディック配給)。
第三の男評論(20)
ただ、ラストシーンが象徴する悪の道に染まる友人を愛した女の堅固な情動が独占しすぎて、主人公の活躍が徒労に終わる物語の虚しさに、どうしても物足りなさを感じてしまう。名優オーソン・ウェルズとアリダ・ヴァリふたりの存在感と比較して、主演のジョセフ・コットンの演技力含めた魅力が弱く、役柄も善人過ぎて深みがない。設定の売れない作家はあっているのだが。映画史上の名ラストシーンでも、好きではない。
キャロル・リード作品では、「邪魔者を殺せ」「落ちた偶像」が気に入っているし、名匠66歳の遺作「フォロ・ミー」が一番好き。
なぜか耳に残ってしまう能天気な音楽と、意外とシリアスな物語。人々の証言の食い違い謎が一層深まる様は、まるで芥川龍之介の小説のよう。
何はともあれ、普通に面白い古典映画でした!
一度はぜひ観てほしい。
先般鑑賞した「名もなき生涯」が第二次世界大戦中のオーストリア人夫婦のストーリーだったことから、大戦後のウィーンを舞台にした「第三の男」を思い出してレビューを書いています。
この映画は、オーストリアが二度の大戦の敗戦を経て米英仏ソの分割統治となり、オーストリア=ハプスブルク帝国の栄華からの凋落が著しいなかの、荒廃したウィーンを舞台としている。
ストーリーは、サスペンスタッチで御存じのことかと思うが、僕がこの作品で最も印象的なのはハリー(オーソンウェルズ)がホリーに話す、プラーター公園の観覧車の乗降口でのセリフだ(僕はバックパッカーをしてた時に、これに乗りました(自慢))。
字幕ではもっと簡潔な表現だったと思うが、僕の意訳で失礼します。
↓
「イタリアは、戦争や虐殺が絶えないボルジア家圧政のわずか30年間でミケランジェロやレオナルドダヴィンチ、そう、ルネサンスを生み出した。しかし、スイスはどうだ。民主主義と平和の500年の慈愛に満ちた歴史は一体何をもたらしたのか。鳩時計だ。」
これほど教養と皮肉に満ち溢れた、そして対比も完璧なセリフが実は、オーソンウェルズのアドリブだと言われている。
30年 vs 500年
戦争と虐殺の圧政 vs 民主主義と平和
ルネッサンス vs 鳩時計
(多くの人はルネサンスというとメディチ家を思い出す人は多いと思うが、ボルジア家が「?」という人は、塩野七生さんの「チェーザレ・ボルジア或いは優雅なる冷酷」を読んでみてください。)
荒廃したウィーンでの犯罪行為を、まるで煌びやかな芸術をもたらす世の習いだと肯定するかのようなセリフ。
しかし、そうだろうか。
クリムトもエゴン・シーレも崩壊寸前の19世紀末のオーストリア=ハプスブルク帝国にあって、退廃をもアート作品のテーマとし、そんな栄光も既に遠い過去のものになっていたではないか。
そう、これにはきっと逆説的なメッセージがあるのではないのか。
ミケランジェロは、ローマ・カトリックの意向に沿った数々の傑作を残した。
システィーナ礼拝堂の天井や壁。「2人のローマ教皇」の会話の舞台だ。
サン・ピエトロ寺院の入って右手にあるピエタは、磔刑から降ろされたキリストはが悲嘆に暮れるマリアの腕の中で瑞々しい肉体を保持して、死からの復活を予感させるというロー・マカトリックの神の物語だ。
しかし、ミラノにある遺作となった「ロンダニーニのピエタ」は人間の物語だ。
あえて荒削りのままにした作品を前方から見ると、死んだキリストを抱え起こそうとするマリアに見えるし、背後から見ると、年老いたマリアをキリストがおぶっているように見えるのだ。
子が亡くなれば親は悲しく、生き返るように祈るだろう。
そして、子は成長して、親を労わるのだ。
ローマ・カトリックの支配の下、宗教的メッセージが強要されるような時代にあっても芸術家たちは既存の価値観に挑戦していたのだ。
芸術は圧政や潤沢な資金が生み出すのではない。
作品を生み出すのは人間だ。
そして、ルネサンスも決して永遠ではなく、バロックに取って代わられるし、その後も、印象派やシュルレアリズム、現代アートと芸術はフロンティアを求めていく。
また、このセリフは現代の独善を逆説的に皮肉っているかのようでもある。
それは、古き良きアメリカを取り戻すとか、分断や特定の価値観だけを後押しするような独善だ。
ハリーがボルジア家のイタリアに想いを馳せても、古き良きオーストリア=ハプスブルク帝国の栄華に想いを馳せても、後戻りなど出来ないのだ。
特定の考え方に固執する独善は滅びるしかないのだ。
「第三の男」のハリーの運命を見ても、それは明らかだ。
この作品には、あのセリフと一緒にそんなメッセージがこめられていると思うのだ。
ところで…(余談)、
映画の名セリフというと、実はこんなに長いセリフは稀で、もっと短い決めゼリフが多い。
先般ファイナルカット版が公開された「地獄の黙示録」のキルゴアの話す「朝のナパーム弾の匂いは格別だ」は好感度はかなり低いが、名セリフとされている。
T2の「I'll be back」や「地獄で会おうぜ、ベイビー」もそうだ。
古いところだと、「カサブランカ」は名セリフの宝庫のように言われていて、男としてカッコいいと思うのが、「昨日何してたの?」という質問に「そんな昔のことは覚えてない」、そして、「今夜会える?」という問いに、「そんは先のことは分からない」と言うやつだ。
カッコいい!是非言ってみたい!
そして、英語のオリジナルと字幕の意訳がどちらも名セリフというのもある。
同じく「カサブランカ」の「Here’s Looking at you, kid」と、その字幕「君の瞳に乾杯!」だ。実に、見事だ。もしかした、英語のオリジナルを字幕が超えてるかもしれない。
だが、この逆もある。
「風と共に去りぬ」のTomorrow is another dayが、「明日は明日の風が吹く」と翻訳されて批判されたのは有名な話だ。明日に希望を抱くセリフが、明日は明日の風とは何事だという批判だった。お気の毒だ。
先般レビューを書いた「薔薇の名前」の最後のラテン語の詩は、セリフではないが、ウンベルト・エーコのちょっとした悪戯心が感じられる。
映画は、このようにセリフに注目して観ても楽しい。
ネットを開くと、映画の名セリフは簡単に検索出来るが、僕は既に絶版になってしまったが、ご逝去された和田誠さんの「お楽しみはこれからだ」シリーズをお勧めしたい。あんなに、愛情の溢れたセリフ集はない。古本屋にはあると思うので、興味のある人は是非。
改めて和田誠さんに合掌。
総合70点 ( ストーリー:60点|キャスト:70点|演出:70点|ビジュアル:65点|音楽:70点 )
何故ホリー・マーチンスは当時としては相当に高価であったであろう航空券までわざわざ与えられて、アメリカからウィーンにまでやってきたのだろう。逆にハリー・ライムはホリーに何をさせたかったのだろう。そこまでして呼んだのならば何かの意思があったはずだが、結局2人が会うのは随分日数がたってからで、しかもそれだけひっぱっておいてその際に言ったのは普通に「仲間にならないか」だけ。その仕事には売れない作家が必要なのか? 呼んだ目的も会わない目的もそれにどんな理由があったのかはわからずすっきりしない。ホリーが到着した直前に呼んだホリー本人が殺される事件があるなんてのも偶然とは思えないが、その背景も謎のまま。
そのあたりのことがわからないと、謎解き作品としては出鱈目すぎる。結局手間暇かけて呼びつけたホリーをほったらかしにすることで彼は親友の死んだ謎の捜査に着手、それでハリーは自らの首を絞めることになった。作品の中で犯罪捜査をする役が必要でそれがホリーになるという、脚本上の都合だけで呼ばれただけじゃないのかと疑ってしまう。最初はどんな謎があるのかと盛り上げておいてそれなりに興味をかきたてられたが、観終わってみるとほったらかしにされて納得出来ない。これでは世間で言われているような名作とは自分の中では認められない。
後半はホリーの生存と悪の正体がわかり、それに対してどうするのかという人間模様を描く話になる。こちらの部分のほうが楽しめたが、ホリーがあまり出てこないし彼の人間性をわからせる演出が不足している。アンナを何の躊躇も無く捨てた悪人の割にホリーは何故最後に姿を現したのかも不思議。とりあえずハリーとアンナの行動と関係の描き方に面白みはあった。
ホリーを演じたオーソン・ウェルズはたいした存在感はなく、物語の展開はハリーとアンナの2人に頼る。どこで遊んでいたのかウェルズは撮影現場になかなかやってこなかったために彼無しで撮影が進められたらしいが、もしかするとそれが影響したのか。
それから母国に戻る列車に乗るとき、アンナの飼っていた子猫がどうなったのかも気になった。ホリーに捨てられたアンナ同様に、猫もアンナに捨てられたのか。この猫もホリーの生存を知らせるためだけに登場しただけかな。
有名な音楽は、犯罪の行われる戦後の荒廃したオーストリアの首都というより、地中海の保養地が似合うようなのんびりとしたもの。だから恵比寿ビールだって使っている。嫌いではないが、これが本当にこの作品に合っているのかはわからない。